趣味と闘争と理解
ディスタンクシオン 100分de名著 社会学者岸政彦
国際社会学会が選んだ20世紀の代表的な10冊のうちの1冊
ディスタンクシオンとはフランス語で区別、差異、卓越という意味
〜第1回私という社会〜
「お金」とは違う経済が文化にある
経済環境や階級・学歴と趣味に相関が出てくる
趣味・嗜好と出会うチャンスは社会構造が決めている
アルジェリアに兵役、フランスの知識人は高みから民衆を支持しているとサルトルらに疑問 アルジェリアを通じての調査・経験が概念を産んだ インテリは民衆を理想化しがち
芸術作品との出会いというのは、普通の人が夢見るような稲妻の一撃は幻想である
日常的文化的行為は教育水準や出身階層が決める
芸術的作品を受け止めれるのは遺産があるからだ
眼は歴史の産物
好き嫌いというのは社会的構造の影響を受けている
〈ブルデュー独自の概念〉
・ハビトゥス ・界 ・文化資本
ハビトゥス=傾向性
ハビトゥスとは私たちの行動を生み出す原理で私たちの体の中に刻み込まれている ハビトゥスを社会的な学習によって習得
人々の行動にある統一性がハビトゥス
ハビトゥスはどこで身につく?具体的に言うと家庭と学校
集合的にできるハビトゥスがある
例…日本の高度経済成長期にも農村労働者が都会に出るなど時代によって大規模なハビトゥスの入れ替えがある
私たちはハビトゥスによって趣味や好みを決めているが一方でハビトゥスの側から分類されている
主体である自分が世界をより分け一本道を切り開いてまっすぐ進んでいるように思うが、ところが世界の側からすると沢山の人生の軌道がまるで駅のターミナルに集まった鉄道のようにくっついたり離れたりする
ハビトゥスによって自分のポジションが決まってしまう ハビトゥスに分類される私たち
ハビトゥスの集団クラスターが発生する
重力の法則があるから飛べる
社会に規定されて生きていることを知るところからしか自由は生まれない
型の中で自由に振る舞うのが自由の本質
型を身体に叩き込んだところから自由が生まれる
〜第2回趣味という闘争〜
趣味とはおそらく何よりもまず嫌悪なのだ
趣味における動機 勝つため 趣味とは戦い
界について…相対的に自律した内部に独自の規則をもった社会空間
広い意味での賭け金 闘技場やアリーナのような空間
文化的・象徴的な「賭け金」を競って何らかの闘争をしている空間 例…芸能界など
私たちは趣味を通じて自分たちのハビトゥスが上に来るように価値観の押し付けをしている
例えば数ある音楽の中からこれがいいとするには、他者に対する否定や差をつけたいという動機があるそれを象徴的闘争といい
つまり何かを良いと思うことは何かを否定することとセットなのだ
みんな自分が勝てるゲームをやりたがる
どうやって闘争するか自体が闘争
縦軸に経済資本量(社会階層)
横軸に資本構造(文化資本・経済資本)
社会的位置空間と生活様式空間を表す図の構成
資本量+
経済資本+…絵画コレクション、ゴルフ、乗馬、ル・フィガロ、シャンペン
資本量+
文化資本+…インテリが好む本や音楽(ル・モンド、バッハ、ブーレーズ、ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトール)
資本量-…ビール、テレビ、スポーツ観戦、釣り、サッカー
文化資本は教養が必要
経済資本はお金が必要
なぜ趣味の話をするのか?
ブルデューは行為論
趣味自体に意味はないが他との関係で意味をもつ
何かを好きになるとは界において特定のポジションを獲得した対象を好きになるということです
そしてその対象に詳しくなることは、俗する界全体の構成や歴史に詳しくなるということです
個を知ることで全体を知り、全体を知ることで個を知る
趣味の「相場」を知る
共通の客観的なマッピングを知ること
実践感覚 相場感覚
語っているのはポジション
異なる界で同じポジションを求める私たち
ポジションのズレがハビトゥスを作る
複数の「界」に参加して色んなゲームをしている
〜第3回文化資本と階層〜
学校が社会的不平等を再生産している
趣味・嗜好も投資されるものであり、利益をもたらすもの
文化資本とは文化財・教養・学歴・文化慣習・美的性向…など
芸術を芸術として受け取る能力=美的性向
美的性向とは純粋に形式を受け取る知識や態度
美的性向は、世界への距離を前提としているのであり、この距離は世界のブルジョワ的経験の原理なのだ。←ある種の禁欲的態度=自分の感覚から距離をとって方法・形式だけを眺める禁欲的な態度=学校的ハビトゥス
学校の勉強はゴールなき甘受
美的性向を得ている人は禁欲的な態度が身についている
そういう人は文化資本を身につけるときに抵抗感が少ない
出身階級で100%決まらないが「構え」は学校や世の中で有利に働く 有利に働くということは利益になるから「資本」
勉強が嫌は知的能力ではなくある種の文化・態度=文化的再生産論
文化的再生産論と義務教育の皮肉
ハマータウンの野郎ども(学習して労働者になる)
今この教室空間を楽しくする方が合理的と自ら進んで低賃金労働者になる
勉強というのは体がじっと座っていられるか
自己責任論にしないのが社会学
“社会は個人のせいにする
社会学は「その人のせいじゃない」と言う作業を続けている”
システム全体をみるところから始まる
自分が得した人ほど自己責任論に陥りがち
階級格差の再生産論は果たして決定論なのか
お互い恣意的な境界線に基づいていることを理解したい
クリーングアクト 野心が冷却される
〜第4回人生の社会学
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